5年ぶりの気まぐれ

……によって、この場所の存在を思い出した。

どうやら当時の私は、ままならないお気持ちをポイ捨てして気が済んだらしい。電子の海では打ち捨てられた言葉がウミガメの鼻に刺さることもない。なんという気楽か。

 

人間はよく忘れる。そしてよく思い出す。

それらは自在なようでいてままならない。海に沈めた錨を引き上げるには鎖が必要で、その鎖を離してしまえば錨の回収は難しくなる。例えば錨がこのブログならば、鎖はURLでありユーザーIDでありパスワード。錨が5年前の私の記憶ならば、鎖のひとつはこのブログだろう。

電子の海では錨は劣化しない。海域ごと消滅することはままあるが。

記憶の海では錨は劣化する。現に私は今、5年前の自分の言葉を読み返して当時をほのかに思い出せはするが、この場所に逃げ込むに至った衝動は思い出せずにいる。

それでいいのだろう。私が衝動的に何かを始めるのは、なにかに嫌気がさした時か一人になりたい時が多い。記憶の鋭角が時間の波に揉まれたなら、当時の面影を偲んで怪我を増やす必要はないだろう。

爪の鋭さをいくらか失おうとも、錨は錨の役目を果たせるのだから。

利害関係のある人に親身になるのは難しい

これは人に語りかけているように見せかけた自分のための記事です。

 

仕事上のお客様や仕事仲間、上司と親しくなって、仕事上がりに一杯飲みに行ってオフレコの愚痴を聞くなどといったことが、社会人ならままあると思う。

家族と一緒に酒を飲んでいたら妙に深刻そうな面持ちで重い悩みを打ち明けられた、などという経験のある人も少なくないだろうと思う。ドラマの見すぎかもしれないが。

 

言って楽になるくらいの愚痴なら言うだけ言ってスッキリしてもらえればいいのだけど、酒と悩みが過ぎて人生相談の体になってくるとそうも言っていられないことがあったりする。というか、私にはあった。

 

私はだいぶ他人に共感しがちな性格をしている。何かと友人の悩みを聞くことも多く、深く話を聞いていくうちにその辛さをロールプレイしてしまって自分が当事者のように辛くなることもままある。

そんな心境で話を聞いて受け答えをしてくれるのだから、悩みに共感してほしいタイプにはまぁウケる。私も頼られるのが嬉しいのでまぁ聞く。

こういう場合、悩みを聞くだけ聞いてもらってどうするかは本人次第で、私のあずかり知らないところだ。

これが共通の友人と関わる恋愛相談だったりすると後から多少の火の粉が降ってきたりもするけれど、根本的には私とは関係ないところの話なので悩みに共感することによる辛さも喉元過ぎればなんとやら、だ。

 

これが家族だったり仕事付き合いのある相手だと、そのお悩み相談の後に起きることが高確率で自分に降りかかる。

わかりやすい例でいえば親や仕事仲間が何かに悩んで転職を考えていると相談してきたら、自分の生活や仕事に影響することが当たり前に予想できるだろう。

 

そういった相手の相談にひとかけらも私情を交えずに乗って、その人のためだけを考えてアドバイスできる人がいたら私は素直に尊敬する。

つまり私には難しかった。アドバイスに「私はこうしてほしい」を交えてしまい、相手の悩みを深めてしまうことになった。

 

何かと話を聞く側にまわりがちな私はこれからも色々な人の悩みを聞くこともあるだろうから、備忘として書き留めておこうと思う。

 

自分の中で何らかの役割を持っている人の悩みを聞くときは、自分の中に「この人にどうなってほしい」という思いが少なからず生まれる。私はそういう人間だ。

だから、最初にそれを相手に教えておいた方がいい。

自分の思いを横に置いて人の話を聞けるほど私は人間ができていないことを覚えておいてほしい。

 

思考を吐き出してスッキリしたついでにいつかの自分の薬になったらいいな。

アンデッドをうっかり殺すかもしれないケアルを、無邪気に唱えたい

ブログのリンク方法がよくわからないはてなブログ新生児です。URLをコピペしたらリンクのガイドが出る?出ませんよ??

そんなわけでベタ貼りし……ようと思ったらリンクできました。リンクのやつ、埋め込みじゃなくて装飾のタブにいました。

 

ネットですべき、ネットだからできる覚悟

 

隠れ傲慢人間がキライだ。 - うさるの厨二病な読書日記

 

とても共感しました。

 

ネットをやっていると

「人を不快にさせるようなことは書きたくない」

「自分が不愉快なことは、他人にもしたくない。そういう記事は書きたくない」

そういう言葉を見ます。

 

自分にとっては、こういう言葉が一番不快です。

 

こういう言葉を見たときに思うのは、「なぜ、会ったこともない赤の他人が不快に思うことが、自分に分かると思うのか」ということです。

なぜ、他人の快不快を自分基準で考えるんだろう???

その発想が、すでに自分には不快です。

 

(中略)

 

「赤の他人の状況の苛酷さなんて知らない。自分は自分の書きたいことを書く」

そういう自分の傲慢さや自己中心性、想像力の欠如からくる残酷さを、せめて認識しておきたいです。

 

SNSであれブログであれ創作であれ、何らかの形で自分の思いを不特定多数に向けて発信する時、それが他者の価値観へ影響を及ぼすものであることを忘れてはいけないし忘れたくないと思います。

またその影響の大小は、自分にはコントロールできないものであることも。

 

例えばケアルはFFの回復魔法ですが、アンデッドの敵にかければダメージを与えるし、状態異常ゾンビの味方にかけてもダメージを与えます。蘇生魔法のレイズに至ってはアンデッドを即死させます。

現実における誰かの価値観はゲームのようにパラメータやステータスとして見ることはできません。自分が自分の価値観において回復魔法ケアルのつもりで放った言葉が、相対的にアンデッドと呼べる価値観の持ち主にケアルガとして大ダメージを与える可能性もあります。

 

私は根がビビりなので、正直に言えば自分の発信で他人が傷つくことは怖いです。

そういう怖さもありつつ、私が発信する行為を続けていられるのは、どこかでダメージを受けるかもしれない誰かがあかの他人だからだと思います。

知りもしない他人の事だからこそ文字通り「他人事」として処理することを決められる。そういうことじゃないかなと思います。

 

 

 

好奇心はときに、覚悟を殺す

 

条件付きなりに誰かを不快にするかもしれないことに対して覚悟を決めてあれこれと発信していると、面白いことにそんな自分を気にしてくれる人というのがひょっこり現れるものです。

 

これは推測ですが、ブログ単体での発信であればそんな「誰か」の内心は、コメントなどがつかなければわかりづらいのではないかと思います。アクセス解析で人が増えてきたのが見えて、たぶん定期的に見に来ている人もいるだろうな、というのがわかるぐらいなのかなと。

 自分を気にしてくれる「誰か」が見えるのはSNSでしょう。

自分の発信に対する反応と、それをした「誰か」がアカウントで紐付いて可視化されます。

 

私は好奇心の強い人間です。そして、長らくSNSでつらつらと思ったことを発信してきた人間です。

自分を気にしてくれる人のアカウントがそこにあったら、どんな人なのかを知りたくなります。

他にどんな人を気にしているのか。本人はどんなものに興味を持ってどんな発信をしている人なのか。私の発信の何が気になるポイントだったのか……時には趣味を通じてリプライを投げ合ったり実際に会ってみたりもして、ネットの向こうのあかの他人だったはずのSNSの繋がりの中に、気づけば友人と呼べるくらいの相手も混ざり始めました。

 

そんなことをしているうちに、ふと、言いたいことを言いたいままに発信できなくなっている自分に気がつきました。

 

ここまで読んでくれた方はそりゃそうだろうと思われることでしょう。今となっては私もそう思います。

『あかの他人のことは他人事だから、うっかり私の発信によってダメージ受けたって知ったこっちゃない』と言いながら、自分からその他人との距離を他人と言いきれないところまで近づけているのだから、そりゃ当たり前に窮屈になるでしょう。なりました。

 

全体化ケアルを持っている私は、フィールドの中にアンデッドの友人を作ってしまったことで不用意にそれを唱えられなくなりました。

最近は全体化エスナを唱えています。状態異常が心地よい誰かには毒になるでしょうが、アンデッド属性の友人には毒にも薬にもなりません。状態異常が心地よいあかの他人に興味を持って近づかない限りは、私はあのSNS空間の中でエスナを唱えてある程度の発信をし続けられるでしょう。

 

 

 

それでも私はケアルを唱えたい

 

私は誰かとの会話の中で思考を深めていくタイプの人間です。その会話は楽しい雑談だったり、妥協点を見つける余地のない価値観のぶつけ合いだったり、子供のような感情のぶつけ合いだったりもします。

そういった会話を経て自分なりに思ったことがまとまったら、私はやっぱり経緯を含めてそれを語りたい。けれど、不特定多数に会話した相手が混ざるような場所で発信することには遠慮があります。お互いに気分よく終えた会話でなかったり、時間が経って古傷になった頃に発信したくなったのならなおのこと。

 

そういった遠慮と語りたい思いが積もり積もって、もう全然違うところで好きなだけ発信しようと思い立ったのがこのブログです。

 

今のネットは広いようでとても狭いので、どこかで知人かもしれない他人がこのブログの記事を読んで傷つくかもしれませんが、知ったこっちゃないです。

 

そう言う意思を持って、言いたいことを言っていきたいです。

悩める"会話の仲介者"に届けたい、「手にとるようにNLPがわかる本」でピンときた話

会議の場で議題を伝えようとした人の話がわかりづらい。場には「コイツ何言ってんのかさっぱりわかんねぇわ……」と白けた空気が漂い始める。

そんな時にどうにかしなきゃと慌てながら情報を整理しようと立ち上がる、会話の仕切り屋・仲介者気質の方に送りたい。そんな内容です。

思いつくままにつらつら書いていたら長ったらしい文になってしまったので、忙しい方は引用文でピンときたら検索サイトに羽ばたいていってもよいかと思います。

 

 

 

先日オーディオブックを紹介するイベントに参加してきたのをきっかけに、耳から情報を流し込むことを始めてみました。

 

そんな中、気になるジャンルの本がFeBeのセール対象になっていたので購入して早速聴いてます。

埋め込みやすかったので下記は紙の書籍のAmazonリンクです。オーディオブックで聞いてみたい方は「タイトル+FeBe」検索して頂ければと。

勘違いだったら申し訳ないけど、Kindle版もあるような話を見かけた気もします。

 

手にとるようにNLPがわかる本

手にとるようにNLPがわかる本

 

 NLPというキーワードは、先日かなりひどく心を病んでカウンセラーを探している中で知ったものだ。

元々どことなく心理学には興味があったのでキーワードとして気に留めていたのだけど、話が逸れるのでこの記事ではそのあたりの詳しいことは割愛する。いつか自分語りをしたくなった時にでも。

 

このオーディオブックを流し聞きしている中で、耳を引いたフレーズがあった。

 

/*以下、引用開始

 

人は何故?と聞かれると本能的に言い訳を考えてしまう傾向があります。

つまり、質問された内容の本質ではなく、なにか他のところに理由を見いだそうとする傾向があるのです。

さらに、声のトーンや口調によっては、「問われた」ではなく「叱られた」という印象を受けることすらあるかもしれません。

(中略)

「何故」という言葉は相手に言い訳を考えさせるだけでなく、相手を否定してしまうニュアンスが入りがちだということにも注意が必要です。

 

/*引用ここまで

 

この、ほんの数十秒の朗読を、耳から流し込んで理解した時の納得感がすごかった。

 

私の今の職場にはコミュニケーションに齟齬があった際に『何が相手に伝わっていなかったのか』を考える人が割と少なく、伝えるのが苦手なタイプの人に問い返しをすると「だって……」としどろもどろになりながら的を射ない返答をされることも多い。

急ぎの案件として持ってこられた時や人を集めた会議の場でよくわからない話を始められると聞いているこちらも混乱して焦るもので、場面ごとの自分の言葉までは定かではないけれど、おそらく否定のニュアンスを含んだ問い返しをしているのだと思う。結果、欲しい情報はうまく引き出せずに時間が経ってしまう。

 

これはオーディオブックを受けた私の推測だけれど。「何故?」という質問の仕方は、とても極端にいうならば、相手に「自分の今の発言から私に何がどう伝わらなかったのかを自力で全部整頓しなおしてもう一回言いなおしてくれ」と丸投げされているのに等しいのではないかな、とふと思った。

思考整理やアウトプットが苦手な人にとってそれはかなりの負担を強いられる返答だろうし、コミュニケーションひいては自分の発言を受けとること自体を拒否されているように聞こえるのかもしれない。

テストを例に例えるなら、採点もされずどこが間違っているのかを教えることすらなく「100点じゃないからやりなおし」と、提出した解答用紙をそのまま返されたような感覚だろうか。

もしこの例えが的を射ているのなら、その理不尽さの一端は理解できるように思う。

私は解答用紙を突っ返される前後のどこかで「だめならどこがだめだったか教えてください」と言い返せる方なので、突っ返されて萎縮してしまう気持ちを全部わかるとは言えないが。

 

私的な付き合いであれば話が合わなければ距離を置く選択肢もあるだろうけど、仕事の付き合いにおいては今ここにいる人同士がどうしたら先に進めるための会話をできるか、を考えた方が建設的だと思う。

先ほどの引用部分に続けてNLPでは、5W1Hの「何故?(Why?)」以外の質問をすることで相手から情報を引き出す方法をすすめているので、週明けからちょっと意識してみたい。

 

またNLPでは、情報の「欠け」や「歪み」を分類したものをメタ・モデルと呼んでいる。

これもまた、日々のコミュニケーションにおける「何かうまく伝えきれていない」「何かもらうべき足りない気がするけどうまく言及できない」といったモヤモヤ感の「何か」の正体を探るヒントになると思うので、NLPや心理学にさほど深い興味がない人でも軽く検索して眺めてみてほしい。

 

 私は仕切り屋・仲介者的な性格の持ち主なので、どうにかコミュニケーション齟齬の仲介をしたいけれどうまくいかないストレスを抱えて、時々、伝えられない奴が悪い!もう知らん!と腐った心境に陥ることもある。

というか、最近はそうなりっぱなしで、反省しつつも突破口が見つからなくて悩んでいる。

 

 どこかにいるかもしれない私のような悩める仕切り屋にNLPの考え方が届いて、何かのヒントになったなら嬉しい。

そのきっかけがこの記事なら、たぶんもっと嬉しい。

 

紹介ツイートのRTが伸びて思うこと

私が今日つぶやいたツイートの中で2つほど、RTがのんびりまったりと伸びているものがある。

どちらもブロガーさんの記事の紹介にその記事を読んだ私の感想を、余り文字数の中で書き加えたものだ。

 

断続的なRT通知や、RT先のツイートを読みに行ってふわふわと思うところがあったので、思考メモとしてまとめておこうかと。

 

①断続的なRT通知から想像できる『読まれてる』感

 

ご紹介した記事はそれなりに文量がある。

かつ、ブロガーさんが「こう思う、こう考える」をまとめた記事なので、その思考の流れを追いながら読むのにはそれなりに時間がかかると思う。たとえば、

 

断続的、言い換えるなら時間差のあるRTの裏に、

TLでRTされたツイートを見かける

興味を持ってURLの先に飛んで記事を読む

読了して、自分のフォロワーにもその記事を広めたいと思う

RTする

 

といった行動と思考の流れがRTからRTの間にあるのだろうと想像している。

もちろんそれが多数派の行動だというわけではない。あくまで想像の範囲の話だ。

RT直後のツイートが「あとで読む」だった方は自分のための備忘RTだろうし、単純に記事タイトルから得た情報(ある作品が完結したこと)を拡散したかったという趣旨の方もいたことは書き添えておく。

 

ツイッターのRTというと瞬発的に増える=バズるパターンがよく目に留まるので、ゆっくり伸びる例を体験できたのはなかなか面白かった。

記事に共感して紹介した身としては、自分が紹介したものを誰かが読んでくれた手応えを得られたようで嬉しい。

 

②紹介者への注目度

これは基本的にRTする本人はあまり意に介さないものだと思っている。そもそもそこに注目していないという意味で。

 

私の基本的なスタンスとして、自分が良いと感じたものをツイッター連携機能で紹介する時にはなるべくコメントを添えるようにしている。おもにブログ記事やなろう小説、Togetterまとめなどの紹介の際に。

コメントの想定読者は私のフォロワーと、エゴサーチをするかもしれない紹介元の作者だ。前者へは「私が良いと思ったものに興味を持ってくれたら嬉しい」、後者へは「あなたのアウトプットを楽しく読ませてもらいました」の意をそれぞれ軽くこめている。

 

逆にあまり共感しなかったものにそういった趣旨の感想を添えたい時は、何も書き足さずに紹介して別個のツイートで感想を言うようにしている。マイナスコメントに注目せず、紹介を目的としてRTした方の想定読者に対してノイズになってしまうだろうから。

 

……なのだが今回、遠いRT先で紹介者である私のコメントに対して共感を示してくれた方もいて、それも案外嬉しいものだなと思ったりもした。

そういった嬉しさを履き違えて自分が注目を得るための手段にしてしまうと、強いマイナスコメントと共に気に入らないものを市中引き回しの刑に処すような非難ツイートをするようになっていずれ炎上するようになるのかもしれないなぁ、とも。

 

 

 

私はそれなりに自己顕示欲の強い人間なので、好きなものを紹介する際にも完全に縁の下に隠れたくはなくてコメントを添えるような形を取るのだけれど、とはいえあくまで目的は紹介であることを忘れないようにしたい。

そんなことを思った1日でした。