紹介ツイートのRTが伸びて思うこと

私が今日つぶやいたツイートの中で2つほど、RTがのんびりまったりと伸びているものがある。

どちらもブロガーさんの記事の紹介にその記事を読んだ私の感想を、余り文字数の中で書き加えたものだ。

 

断続的なRT通知や、RT先のツイートを読みに行ってふわふわと思うところがあったので、思考メモとしてまとめておこうかと。

 

①断続的なRT通知から想像できる『読まれてる』感

 

ご紹介した記事はそれなりに文量がある。

かつ、ブロガーさんが「こう思う、こう考える」をまとめた記事なので、その思考の流れを追いながら読むのにはそれなりに時間がかかると思う。たとえば、

 

断続的、言い換えるなら時間差のあるRTの裏に、

TLでRTされたツイートを見かける

興味を持ってURLの先に飛んで記事を読む

読了して、自分のフォロワーにもその記事を広めたいと思う

RTする

 

といった行動と思考の流れがRTからRTの間にあるのだろうと想像している。

もちろんそれが多数派の行動だというわけではない。あくまで想像の範囲の話だ。

RT直後のツイートが「あとで読む」だった方は自分のための備忘RTだろうし、単純に記事タイトルから得た情報(ある作品が完結したこと)を拡散したかったという趣旨の方もいたことは書き添えておく。

 

ツイッターのRTというと瞬発的に増える=バズるパターンがよく目に留まるので、ゆっくり伸びる例を体験できたのはなかなか面白かった。

記事に共感して紹介した身としては、自分が紹介したものを誰かが読んでくれた手応えを得られたようで嬉しい。

 

②紹介者への注目度

これは基本的にRTする本人はあまり意に介さないものだと思っている。そもそもそこに注目していないという意味で。

 

私の基本的なスタンスとして、自分が良いと感じたものをツイッター連携機能で紹介する時にはなるべくコメントを添えるようにしている。おもにブログ記事やなろう小説、Togetterまとめなどの紹介の際に。

コメントの想定読者は私のフォロワーと、エゴサーチをするかもしれない紹介元の作者だ。前者へは「私が良いと思ったものに興味を持ってくれたら嬉しい」、後者へは「あなたのアウトプットを楽しく読ませてもらいました」の意をそれぞれ軽くこめている。

 

逆にあまり共感しなかったものにそういった趣旨の感想を添えたい時は、何も書き足さずに紹介して別個のツイートで感想を言うようにしている。マイナスコメントに注目せず、紹介を目的としてRTした方の想定読者に対してノイズになってしまうだろうから。

 

……なのだが今回、遠いRT先で紹介者である私のコメントに対して共感を示してくれた方もいて、それも案外嬉しいものだなと思ったりもした。

そういった嬉しさを履き違えて自分が注目を得るための手段にしてしまうと、強いマイナスコメントと共に気に入らないものを市中引き回しの刑に処すような非難ツイートをするようになっていずれ炎上するようになるのかもしれないなぁ、とも。

 

 

 

私はそれなりに自己顕示欲の強い人間なので、好きなものを紹介する際にも完全に縁の下に隠れたくはなくてコメントを添えるような形を取るのだけれど、とはいえあくまで目的は紹介であることを忘れないようにしたい。

そんなことを思った1日でした。