アンデッドをうっかり殺すかもしれないケアルを、無邪気に唱えたい
ブログのリンク方法がよくわからないはてなブログ新生児です。URLをコピペしたらリンクのガイドが出る?出ませんよ??
そんなわけでベタ貼りし……ようと思ったらリンクできました。リンクのやつ、埋め込みじゃなくて装飾のタブにいました。
ネットですべき、ネットだからできる覚悟
とても共感しました。
ネットをやっていると
「人を不快にさせるようなことは書きたくない」
「自分が不愉快なことは、他人にもしたくない。そういう記事は書きたくない」
そういう言葉を見ます。
自分にとっては、こういう言葉が一番不快です。
こういう言葉を見たときに思うのは、「なぜ、会ったこともない赤の他人が不快に思うことが、自分に分かると思うのか」ということです。
なぜ、他人の快不快を自分基準で考えるんだろう???
その発想が、すでに自分には不快です。
(中略)
「赤の他人の状況の苛酷さなんて知らない。自分は自分の書きたいことを書く」
そういう自分の傲慢さや自己中心性、想像力の欠如からくる残酷さを、せめて認識しておきたいです。
SNSであれブログであれ創作であれ、何らかの形で自分の思いを不特定多数に向けて発信する時、それが他者の価値観へ影響を及ぼすものであることを忘れてはいけないし忘れたくないと思います。
またその影響の大小は、自分にはコントロールできないものであることも。
例えばケアルはFFの回復魔法ですが、アンデッドの敵にかければダメージを与えるし、状態異常ゾンビの味方にかけてもダメージを与えます。蘇生魔法のレイズに至ってはアンデッドを即死させます。
現実における誰かの価値観はゲームのようにパラメータやステータスとして見ることはできません。自分が自分の価値観において回復魔法ケアルのつもりで放った言葉が、相対的にアンデッドと呼べる価値観の持ち主にケアルガとして大ダメージを与える可能性もあります。
私は根がビビりなので、正直に言えば自分の発信で他人が傷つくことは怖いです。
そういう怖さもありつつ、私が発信する行為を続けていられるのは、どこかでダメージを受けるかもしれない誰かがあかの他人だからだと思います。
知りもしない他人の事だからこそ文字通り「他人事」として処理することを決められる。そういうことじゃないかなと思います。
好奇心はときに、覚悟を殺す
条件付きなりに誰かを不快にするかもしれないことに対して覚悟を決めてあれこれと発信していると、面白いことにそんな自分を気にしてくれる人というのがひょっこり現れるものです。
これは推測ですが、ブログ単体での発信であればそんな「誰か」の内心は、コメントなどがつかなければわかりづらいのではないかと思います。アクセス解析で人が増えてきたのが見えて、たぶん定期的に見に来ている人もいるだろうな、というのがわかるぐらいなのかなと。
自分を気にしてくれる「誰か」が見えるのはSNSでしょう。
自分の発信に対する反応と、それをした「誰か」がアカウントで紐付いて可視化されます。
私は好奇心の強い人間です。そして、長らくSNSでつらつらと思ったことを発信してきた人間です。
自分を気にしてくれる人のアカウントがそこにあったら、どんな人なのかを知りたくなります。
他にどんな人を気にしているのか。本人はどんなものに興味を持ってどんな発信をしている人なのか。私の発信の何が気になるポイントだったのか……時には趣味を通じてリプライを投げ合ったり実際に会ってみたりもして、ネットの向こうのあかの他人だったはずのSNSの繋がりの中に、気づけば友人と呼べるくらいの相手も混ざり始めました。
そんなことをしているうちに、ふと、言いたいことを言いたいままに発信できなくなっている自分に気がつきました。
ここまで読んでくれた方はそりゃそうだろうと思われることでしょう。今となっては私もそう思います。
『あかの他人のことは他人事だから、うっかり私の発信によってダメージ受けたって知ったこっちゃない』と言いながら、自分からその他人との距離を他人と言いきれないところまで近づけているのだから、そりゃ当たり前に窮屈になるでしょう。なりました。
全体化ケアルを持っている私は、フィールドの中にアンデッドの友人を作ってしまったことで不用意にそれを唱えられなくなりました。
最近は全体化エスナを唱えています。状態異常が心地よい誰かには毒になるでしょうが、アンデッド属性の友人には毒にも薬にもなりません。状態異常が心地よいあかの他人に興味を持って近づかない限りは、私はあのSNS空間の中でエスナを唱えてある程度の発信をし続けられるでしょう。
それでも私はケアルを唱えたい
私は誰かとの会話の中で思考を深めていくタイプの人間です。その会話は楽しい雑談だったり、妥協点を見つける余地のない価値観のぶつけ合いだったり、子供のような感情のぶつけ合いだったりもします。
そういった会話を経て自分なりに思ったことがまとまったら、私はやっぱり経緯を含めてそれを語りたい。けれど、不特定多数に会話した相手が混ざるような場所で発信することには遠慮があります。お互いに気分よく終えた会話でなかったり、時間が経って古傷になった頃に発信したくなったのならなおのこと。
そういった遠慮と語りたい思いが積もり積もって、もう全然違うところで好きなだけ発信しようと思い立ったのがこのブログです。
今のネットは広いようでとても狭いので、どこかで知人かもしれない他人がこのブログの記事を読んで傷つくかもしれませんが、知ったこっちゃないです。
そう言う意思を持って、言いたいことを言っていきたいです。